公から私へ変わっていく葬儀の歴史1

もともとは地域のものであった葬儀

近年の葬儀の歴史を考えていくうえで、ひとつのキーワードになるのは「公」と「私」です。葬儀の役割のひとつに社会的な告知の役割や教育上の役割がありました。
告知の役割というのはその集団における人が亡くなったことを伝える場であり、葬儀を執り行う人、そして参加する人の両方がその地域の人でした。また教育上の役割というものは「死」というものがどういうものであるかを若年者に伝える場所でもあったのです。「死」というものは忌むべきものであり、できるだけ生活に近づけないようにする習慣があったため、「死」を学ぶための場所が葬儀でもあったのです。
そのため葬儀は個人のものではなくその地域のものでもありました。

講と呼ばれる組織によって地域で葬儀は行われていた

現在のように葬儀業者に依頼して葬儀を執り行うのが一般的になる前には葬儀は地域で行われるものでした。「講」と呼ばれる地域の組織があり、その組織によって葬儀は執り行われていました。
講には葬儀に関する細かいルールが取り決められており、そのルールに沿って葬儀は行われていました。ルールは地域内で共有され、そのルールが引き継がれて次の世代でも同じ葬儀が行われていたのです。葬儀は公的なものであり地域として行うものだったのです。

それぞれの地域の特徴あるものから統合された葬儀に

日本人の生活習慣が変化していくにつれて少しずつ講で葬儀が行われることは減っていきました。都市部を中心にそれまでの土地を仲立ちにした生活の習慣が崩れていき、多くの人が生まれてから亡くなるまでの間に自分の生まれ育った地域で過ごすということがなくなっていったのです。葬儀は急速に地域を基準にしたものから日本全国で標準的なものへと変わっていきました。それは交通機関やテレビが普及するにつれて方言が共通語に統合されていったのと同じように葬儀の形式も統合されていきました。

葬儀を執り行うのが講から互助組合に、互助組合から葬儀業者に

葬儀を執り行うのは互助組合に代わっていきました。これは現在の葬儀業者のもととなったものです。会員から集めた会費によって葬儀が執り行われました。葬儀は少しずつ私的なものと代わっていったのです。現在では講で葬儀を執り行う地域は少しずつ少なくなっています。
葬儀が個人のものに代わっていったことで葬儀を対する遺族の方の考え方も少しずつ変化していったのです。